新着情報

MORE

コミュニティのある意味

山元町に「みんなのとしょかん」を設置してから、9か月が過ぎようとしています。
その間にこの場所の風景は変わりました。

更地となってしまった場所にとしょかんを設置したときは、
ただ、プレハブの建物が一つあっただけでしたが、
としょかん初期

板張りだったとしょかんの床にカーペットが敷設され、
電気が通り、
敷地に花壇がつくられ、、
としょかんの前に遊具が置かれ、人工芝が敷設され、、
そして、今度はビニールハウスを活用し、地域の方が集まる事が出来る
集会所がつくられています。
じいたんドーム

私たちがすごい事をした、というような書き方に見えるもしれませんが、そうではありません。
私たちが携わったのは最初のとしょかんの設置だけであり、後の事はお手伝いはするものの、基本的にすべて地域の方々とボランティアの方々の手によるものです。

このように育つためには、多くの方の力が必要でした。
つまり、手間をかけた、という事です。

コミュニティとは「共同体」、つまり深く結びついている人びとの集まりを指します。
深く結びつくためには、関わりのある人がそれぞれに携わる必要があります。
コミュニティとは元来、手間の掛かるものなのです。

しかし、忙しい毎日を過ごす中で、
そして、様々な面において効率化が叫ばれる中で、
食事の準備も、自宅の防犯も、親の介護も、
いわゆる手間の掛かる仕事は、ある程度の費用を払えば代行してくれる時代になりました。
そして、その中でコミュニティの存在意義も薄れていったことは否めません。

誤解をしてほしくないのは、
これらが全て悪いという事ではありません。
それによって救われる人がいるのもまた事実です。

ただ、全ての事に手間を掛けなくなったが故に、
地域のコミュニティが希薄となった事は事実です。
そして、全ての方が便利なサービスを享受できるほど、
裕福な経済環境にある訳ではなく、
すべての地域に便利なサービスが供給されている訳でもありません。

先にも述べたように、コミュニティとは手間の掛かるものです。
そして、コミュニティをつくるにもある程度の費用は掛かります。
しかし自分たちでつくりあげれば、その費用は大幅に減少します。
何より、自分が携わる事で、自分が望むコミュニティに近づきます。
そこに、自分が携わる意味も存在します。

人口が減少していく社会において、
町の税収は減少し、公的サービスの拡充は図れなくなる中で、
高齢化が進み、少しずつ経済活動が縮小されていく地域において、
従来のサービスを享受できなくなる事が予想される時代、、

インターネットやSNSなども発達し、
他者とのコミュニケーションは簡単に出来る仕組みはあるものの、
やはりそれだけでは生きていくことは厳しい時代の中、
あくまでも強制ではなく、
自分が関わる意味を感じ、
何より、楽しみながら、無理なくつくられたコミュニティは、
地域の不安を補完する存在になれると思うのです。

手間、というものが何も煩わしいものではなく、
自分が必要とされることに楽しみながら時間を掛ける、、
誰かが手間を掛けてくれたから、
張り切って自分も手間を返す、、
そんな地域の関係性ってとても素敵ですよね。

そしてこの関係性は、
必ず将来、自分たちの地域にも必要となるかもしれません。

被災地、という呼び方は本当に好きではありませんが、
今の被災地の姿は、数十年後に日本の各地に必ず訪れる、
高齢化が進み、疲弊した、地域の姿です。

それを、被災地は身をもって見せてくれています。
若者が減り、雇用も減り、主たる産業も育たない中、
それでも地域は生きていく術(すべ)を持とうとしています。
その一つが今の時代に即したコミュニティなのかもしれません。

震災により、本当に厳しい状況に置かれた中で、
時折、前が見えなくなるような不安を抱えながらも、、
時折、弱音を吐きながらも、
それでも地域の人が手を携え、進んでいく彼らの姿を見ると、
そんな気持ちを抱かずにはいられません。

地域は尊敬できる方に溢れています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です


*